東山町の筍(竹の子)の由来
小松市で竹の子と言えば東山町というほど、今では竹の子の特産地ですが、決して一朝一夕で生まれたものではなく、数
百年にわたる祖先たちの汗と油の結晶であることを忘れてはいけません。
東山町の伝承によれば、江戸時代の天保の頃、肝煎(きもいり・町内会長のような人)の仁平衛は、石黒十村が金沢から
買い求めて育てていた孟宗竹の一本をもらい受けて、自宅の裏口の畑に植えた。これが東山竹の子の親竹となった。
その後、時代は流れて明治末期になっても竹の子のある家は数件に過ぎず、ましてや、商品として販売するというような
ことには全く無知だった。
大正時代になって、小松町から野菜の行商人である後藤某なる人が来て、竹の子を請負にて掘るようになった。これに
刺激されて、次第に竹藪が拡大され、小松町の青果市場などに出荷されるようになっていった。
しかし、なんといっても東山竹の子の名声をあげるのに、一役買ったのは若き主婦たちの活躍だった。
昭和4年(1929年)の5月中旬、三人の主婦が生活苦を打開するために、竹の子を売り歩くことを決意。まずは知り合い
のいない白江や一針町方面へ夜明けと共に朝掘りの竹の子の行商を始めた。
結果、竹の子は飛ぶように売れた。
昭和10年を境とした数年間は、主婦たちによる竹の子売りの全盛期を迎え、毎朝、リヤカーを押した数十名の主婦たち
が小松町周辺に東山の竹の子を売り歩いた。
※ 昭和4年(1929年)の10月24日、はアメリカで株価が大暴落し、世界恐慌が発生。
その影響で 昭和5年〜6年は、日本経済は「昭和恐慌」と呼ばれる大不況で、とくに農村部では米価が暴落した結果、女子の人身売買や欠食児
童、など過酷な飢餓と貧困に陥った。そういう時代背景で、竹の子を売り歩いて少しでも現金を得ようとしたのだと思います。
参考図書:「祖先の歩ゆみ 東山町史」昭和53年3月25日発行
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