小松だよ!懐かしの小松市、郷土史!!

石川県 小松市

小松市 東山町と勘定村





小松市 東山町の竹の子工場



小松市東山町と勘定村


小松市東山町はもともとは勘定村と言われていました。


勘定村の誕生
「勘定村」の起源を記したはっきりとした文献や史料はないため、「勘定」という言葉から推測してみる。


その1.  金平金山の労働者たちが、賭博をした後の勘定場所だった?

地元ではよく聞かれる、勘定峠や勘定村の伝承です。たぶん、ほとんどの人がこの説を口にします。

反証
金平金山が発見されたのは、1764年頃ですが、それ以前の1670年の「村御印」という史料には、「勘定村百姓中」という 記載があるのでこの説は作り話の可能性が高い。ちなみに尾小屋鉱山の発見は1877年(明治10年)なので、鉱山と勘定 村とは無関係なのは明白。


その2.  勘定奉行と関係のある村だった?

「勘定」という地名は珍しく、もしかしたら勘定に関わる職業と何か関係があるのではないかと思う人はきっといるはずで す。私もそう思っていました。加賀藩経営の金平金山があり、藩の勘定方がいたから「勘定」と呼ばれていたと。

ちなみに「勘定奉行」は「寺社奉行」「町奉行」からなる三奉行であり、江戸幕府の要職が小松の山間部にあるのはおかし い。

反証
戦国時代に一向一揆が「勘定砦」を築いたことから江戸幕府以前から「勘定村」は存在していたのでこれでこの見方は間 違いと言うことが分かります。


その3.  律令時代の「損田」に由来を持つ?

台風・大水・霜・ひでり・虫などの天災によって収穫が減った田=「損田」。
「日本三代実録」(平安時代に書かれた歴史書)の元慶3年(879年)に、国々の被害を受けた田地を「損田」として国司が 勘定して上奏した、とあるからなにか因果があるとするなら「損田を勘定して報告していた」という平安時代の名残ではな かろうか?東山町では大きな土砂災害がなんども発生した歴史があり、治水の悪かった時代には地すべりや土砂崩れな どで田畑のダメージが大きく、「損害の多い地域」として「勘定」という地名をつけた可能性がある。



大正2年発行の地図
現在と道路状況が違いますので分かりにくいかもしれません。
二つの幹線道路は現在は廃道のような林道です。国道416号はこの時代はありません。
道路や田んぼは、大正時代の半ば頃から一気に改良工事がされて、現在の地図に近いものになります。




小松市東山町の誕生・・・昭和15年12月1日

皇紀2600年行事として、町村合併が行われ、小松町が付近の町村を合併して市政を実施した。
合併したのは、小松町、安宅町、牧村、板津村、白江村、苗代村、御幸村、粟津村。
※現在の小松市が誕生したのは戦後の初代市長の大合併のときです。

市政施行に伴い、町名の変更を行うことになり、広く町民から名称募集をしたところ、「東山町」を採用することが決定され た。
竹の子の特産地であったので、「竹の子町」という町名も論議されていた。
選考に当たったのは、小松市長の山口又八氏と町内会長の橋本清次氏であったが、小松市の東方に位置していること と、京都の東山にもあやかって選定された。




4月の後半になると、東山町の山のほとんどが、竹の子を掘った跡で穴だらけになります。(~o~)



東山町の筍(竹の子)の由来


小松市で竹の子と言えば東山町というほど、今では竹の子の特産地ですが、決して一朝一夕で生まれたものではなく、数 百年にわたる祖先たちの汗と油の結晶であることを忘れてはいけません。
東山町の伝承によれば、江戸時代の天保の頃、肝煎(きもいり・町内会長のような人)の仁平衛は、石黒十村が金沢から 買い求めて育てていた孟宗竹の一本をもらい受けて、自宅の裏口の畑に植えた。これが東山竹の子の親竹となった。
その後、時代は流れて明治末期になっても竹の子のある家は数件に過ぎず、ましてや、商品として販売するというような ことには全く無知だった。

大正時代になって、小松町から野菜の行商人である後藤某なる人が来て、竹の子を請負にて掘るようになった。これに 刺激されて、次第に竹藪が拡大され、小松町の青果市場などに出荷されるようになっていった。


しかし、なんといっても東山竹の子の名声をあげるのに、一役買ったのは若き主婦たちの活躍だった。
昭和4年(1929年)の5月中旬、三人の主婦が生活苦を打開するために、竹の子を売り歩くことを決意。まずは知り合い のいない白江や一針町方面へ夜明けと共に朝掘りの竹の子の行商を始めた。
結果、竹の子は飛ぶように売れた。

昭和10年を境とした数年間は、主婦たちによる竹の子売りの全盛期を迎え、毎朝、リヤカーを押した数十名の主婦たち が小松町周辺に東山の竹の子を売り歩いた。

※ 昭和4年(1929年)の10月24日、はアメリカで株価が大暴落し、世界恐慌が発生。
その影響で 昭和5年〜6年は、日本経済は「昭和恐慌」と呼ばれる大不況で、とくに農村部では米価が暴落した結果、女子の人身売買や欠食児 童、など過酷な飢餓と貧困に陥った。そういう時代背景で、竹の子を売り歩いて少しでも現金を得ようとしたのだと思います。


参考図書:「祖先の歩ゆみ 東山町史」昭和53年3月25日発行




江戸時代に東山竹の子の親竹が植えられた竹林。昔は周囲に家がなくて、もっと大きな竹林だったそうです。







かつての勘定峠に置かれていたお地蔵様(不動明王?)は、現在江指町の神社前に安置されています。

東山町(勘定村)の伝承に「南方に鎮座する不動明王の加護のおかげで、火事が昔から少ない」といわれる。

「火事不知勘定」といわれる。

ただし、明治29年の豪雨で山崩れが200ヶ所!発生。
当時は今と違って建設機械や車のなかった時代、治山や治水の土木は人力で限界があったのは当然。









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