に至って採掘権が、明治維新の志士 土佐藩士 竹内綱(芳谷炭坑株式会社)に渡り、後に長男竹内明太郎氏 (竹内鉱業株式会社)吉田茂元首相の実兄が当鉱業の経営に当った。 氏の経営は当時の最先端をゆくもので、明治40年(1907年)には、鉱山から小松まで軽便鉄道を敷設し、また採 掘を人力より機械化するために、神子清水発電所を建設し、精煉方法も溶鉱炉に、さらに電気分銅所を設置しそ の規模を拡大した。 大正5年(1916年)頃には、純銅を生産する鉱山として従業員も1,600人を数え、家族も合わせて5,000人が住み、 病院、郵便局小学校、衣料や雑貨屋、魚屋、料理屋、質屋等軒をならべた鉱山町を現出した。 明太郎氏は機械工業の重要性にかんがみ、再度にわたり先進諸外国の実情をつぶさに視察、立ち遅れている 機械工業の役割を認識し、遊泉寺銅山私設鉄工所として小松鉄工所を設置操業した。その後、鉱脈の不足や第 一次世界大戦後の不況などのため、遊泉寺銅山は大正9年(1920年)閉山のやむなきに至った。』
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竹内明太郎は明治35年(1902年)、この銅山の開拓に乗り出す。芳ノ谷炭鉱での経験を生かし、遊泉寺−小 松間の約8キロメートルに及ぶ専用鉄道の敷設、小型溶鉱炉真吹法の採用など、近代的な鉱山経営によって 業績を上げた。 そのいっぽうで明太郎は、明治44年(1911年)から大正元年(1912年)にかけて、二度目の欧州視察に出 た。そこで彼我の機械工業技術力の格差をいっそう痛感し、鉱山業から機械工業へ、そして技術教育へという シフトをますます強めて行った。すでに第一回欧州視察の直後から、有能な技術者を欧米に派遣していたが、 この取り組みをいっそう強めた。遊泉寺銅山の所長・岩井輿助と、明太郎が株主をしていた快進社の社長・橋 本増治郎を技術習得のため米国に派遣し、唐津に続く第二の鉄工所建設の準備に入った。 唐津鉄工所の設立から10年後の大正6年(1917年)、遊泉寺銅山の付属施設として「小松鉄工所」が設立 された。橋本増治郎が快進社社長のまま兼任で初代所長となった。翌年には見習生養成所(後の工科青年学 校)も附設された。旋盤などの工作機械に唐津鉄工所製のものが使われ、唐津からの技術指導も積極的に行 われた。兄弟会社としての性格を象徴するのは、小松鉄工所の本社建築である。これは、竹尾年助が米国に おいて、唐津鉄工所本社用に、米国の建築事務所に作らせた図面をもとに造られた。 明太郎は次いで、国産機械の品質向上を目指して、特殊鋼材の自家製造に踏み切る。遊泉寺銅山内に、岩 井輿助を所長とする「竹内鉱業小松電気製鋼所」を開設し、電気炉による鋼材生産に入った。 明太郎が九州の唐津に続いて北陸の小松に先進的な鉄工所を設立したことは注目すべきことである。それ は、鉱山に近いという立地条件だけでなく、将来の工業日本を支える技術を育む拠点は、落ち着いた地方都市 に置くべきだとの信念に基づくものであった。また、農漁村地帯に新しい産業を興したいという意図もあったと指 摘されている。 第一次世界大戦は世界の鉱工業生産を刺激したが、その後の反動不況により、親会社の竹内鉱業は不振 に陥った。芳ノ谷炭鉱は三菱に売却され、唐津鉄工所は大正5年(1916年)に独立会社となった。遊泉寺銅山 は大正9年(1920年)に閉鎖され、その付属施設だった小松鉄工所は独立して「小松製作所」となった。明太 郎は引き続き経営の実権を握ったが、大島小太郎(連載第11回)など、新たな出資者も加わった。こうして小 松製作所は苦境を乗り切り、戦中は軍需工場として、戦後は初の国産トラクターやブルドーザーを開発し、建設 機械のトップメーカーとなった。事業は国際的なものとなり、現在の(株)コマツに至っている。
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