かく言う私も、平成時代に社会人になって週末の夜、小松駅前に飲食に出かけるようになっても、小松駅 前の居酒屋やラウンジ、スナックといった場所は行きやすかったですが、清水町は敷居が高いというか、中 高年御用達スポットのイメージが強くて(親が清水町は金持ちの行くところといっていた)、深夜まで営業して いる「きりうどん」しか行ったことないです。 駅前付近に住む知人は「子供の頃に清水町に行くな」とよく親に言われて、チンピラやくざがいるような危 ないところというイメージがあった、というし、近所の古老は若いころ、お旅祭りの頃になると、本折神社の境 内を通って、清水町に遊びに行った、という人もいる。別の古老は、小松高校生だった頃に、自転車で赤線 だった清水町に行った思い出を語った。それぞれの青春の思い出の中にあるものを大っぴらに語るもんじ ゃないのですが、その時代の空気を知ることができました。 ところで、昭和37年10月16日の北国新聞を読んでいたら「巴組長宅に、散弾銃打ち込まれる」、抗争相手 の山代の上出組が襲撃したらしい、そんなヤクザ映画のような記事が載っていて、なるほど、その当時の小 松駅前は血気も活気も盛んだったのだと分かりました。そういえば1980年頃は小松駅前で暴走族が走り 回っていたこともあった。小松駅前の賑わい史も新聞記事から掘り起こして読むと面白いです。 ちなみに、小松市で50年以上続く三大老舗のクラブといえば、「クラブ 陽子」「ラウンジ 真菰」「クラブ 紫」 らしいですが、全部聞いた話ですので詳しいことは私は知りません。 一昔前ならば、赤線時代の清水町のことを語るのは「タブー」のようなことだったと思いますが、そういう世 代はもう老齢に達しており、花街があったことは、昭和時代の記憶として語り継がれるような時代となりまし た。終戦後しばらくは行政によって公認されていた小松市の遊郭、花街だった清水町がどんなところなのか 興味があり、調べてみました。 なお、小松市で初めてカフェが開業したのも清水町でした。。 記録によれば、昭和6年、黒田医院が清水町に『来々軒』をオープンさせ、ハーフ(混血)の女性従業員が人 気の店だったということです。今の「吉田寿司」や「レスト峠」などが並ぶ辺りにあったようです。 清水町、栄町から南町にかけてソウケ町と呼ばれ、ここに住んでいた武士たちが金沢に引上げた跡は畑 地となり、肥料桶の胴桶が方々に設けられていたので、ソウケ町がドウケ町となって、清水町の別称となっ た。 明治初年に山王地内に牛島屋、生駒、大竹千丸、自由亭、こんにゃく屋、高島屋、ぶん屋の貸座敷があ り、清水町にかけても貸座敷が建てられていった。明治二十七年に貸座敷及び娼妓免許地域の県令によ り、方々に散在することが許されず、清水町が免許地に指定されたので、他にあったものもここに移り、山 王地内のものも社地である故に一代限りの営業となったので、清水町が花街を形成するに至った。移り変り があったが、以前に営業していたものは次のとおりである。 一六、大甚、赤行燈、大黒楼、大可、東京楼、松竹楼、要石、赤座、生駒、天狗楼、徳万楼、三好楼、恵比 寿楼、北川、南、いろは井幕楼、常盤楼、浪花楼、富貴楼、春玉、三盛楼、錦楼、栄楽亭、お多福楼、鉱山 楼、寿楼、一力、住吉楼、喜楽亭、勇楼、玉三楼、殿待楼、大竹、八栄富、清水楼、吉豊、栄花楼、竹妻 楼、松花楼、日吉楼、摂津楼、三光楼、錦生楼、湖月、初音、吾妻楼、浪速楼 公娼については昭和二十一年一月GHQ(占領軍)から廃止令が出ていたが、日本政府は「特殊飲食店」 の名目で売春行為及び売春婦の存続を黙認してきた。娼婦は自由意志で売春しているとみなされ、一定区 域(赤線区域)内での営業が許された。昭和二十九年から売春禁止が国会の審議にのぼり、三十一年五月 に売春防止法が成立し、昭和三十三年四月から実施された。 石川県では赤線業者の二月転業に対し、同従業婦たちは絶体反対を県に訴えたが、二月二十八日で赤 線業者は消滅した。 『目で見る小松の歴史B 昭和の小松』(平成2年)加南地方史研究会
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